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雑記:メモ

ただのメモ。





※あくまで個人の考え。
非常にデリケートなネタを、○○○○のどれかに該当するからというだけの理由で何で公表しなければいけないのか。○○○の人が「俺○○○が大好きなんだよ」と会う人会う人に言ってまわらないのと一緒。相手と状況を選んで行うならともかく、常時公表することではないという思いがある。
だから自分が○○○○だとこれまでに名乗ったことはないし、名乗る予定もない。○○○○という括り以外、つまり「自分が属するどれかの属性」に関しては、話をする関係上どうしても必要なら言うこともあるが滅多にやらない。

属性はどんな属性であれ人間を構成するパーツに過ぎない。パーツである以上、属性の存在を無かったことにはできないが、かといって属性を強く意識すると逆に属性に縛られる。属性に縛られると生き方の幅を自分で狭める結果になる。周りも属性を必要以上に意識してよろしくない。

ただ、何を優先するか等の事情、環境は人それぞれ異なるのだから、どうしても名乗らなければならない事情のある人は名乗ればいいと思う。それ自体を否定たりはしない。
ひとつだけわかるのは、個々人にとって必要があるかないかは異なるということ。「名乗るな」や「名乗らなければならない」よりも、「名乗るか名乗らないかは個人の自由」であったほうがいい。






















以下は上のとは関係ないが、置き場所がないのでここに。
・人間は差別主義者とそれ以外に綺麗に分けられない。被害者意識と差別意識が紙一重なように、また、本人が望む望まざるに関わらず差別的になる可能性はあるし、絶対的なマジョリティもマイノリティもおらず、マイノリティが差別を行うこともある。
差別は誰でもやる可能性があるからいちいち指摘する奴が悪いとか、或いは片っ端から差別主義者として糾弾しろというのと、誰でもやる可能性があるから指摘はしつつもお互い様と思って気をつけようというのは違う。私は最後のが良いと思うけどね。
・表現者に差別の意図がなければ差別にならないかと言えばそうでもない。しかし基準が「差別されたと思った人が差別だと言えば差別になる」だと、朝○理論になってしまう。
意図の有無は問われずとも、文脈の有無は問われるべきだと思う。




こちらは更に関係ない話だが、置き場所がないので。


※「解釈」について。
あまり縁が無かったので最近知ったんだけど、「解釈違い」で争いになることがあると聞いて驚いている。注意して見ていると、好きでないという表現に不快感を感じて排除に繋げようとする人もいれば、好きだという表現に不快感を感じて排除しようとする人もいるようだ。他人の好き嫌いに対して不快感を感じるまではともかく、なぜ排除に発展してしまうのか。

「公式との解釈違い」に関しては、TES4主人公がDLCでシェオゴラスになり、TES5のシェオゴラスがTES4主人公との繋がりを匂わせる台詞を発したとしても、各プレイヤーが自分の中のTES4主人公をそれと同じにする必要はない。それと同じだろうと。

個人的には、他人の解釈に触れることができるのは嬉しい。自分で気づけなかったもの、自分には出力できなかったものに触れて、対象への理解が深まる。それが好き。内容に関しては取捨選択すればいい。合うもの、納得できるものを選び取って組み合わせればいい。


※表現について。
人はそれぞれ異なるんだから感じかたも違う。対象を好きな人も居れば嫌いな人も居る。それは普通のことで、好きであることを表現する自由も、嫌いなことを表現する自由もある。
だが嫌いなものを嫌いだと言うことと、その感情を理由として排除する行為は違う。

何を不快と思うかは人それぞれ違うのが現実で、その上で「不快と思う人がいたら排除していい」を通すと、ありとあらゆるものが排除の対象になってしまう。迫害されてきたマイノリティなんてモロに対象になる。普通だと認識された表現ですら、人によっては不快なものに写る。
SNSに旅行や食事の写真を上げたら不快と言われた話を聞いたことがあるけど、誰でも誰かの不快な表現を排除できるなら、こういうのも排除される社会になる。自分より絵が上手いから不快、自分より顔がいいから不快、逆も然り。雑な基準だから何とでもできる。

私も過去に酷いことをされて、相手の表現のことを排除したい欲にかられた経験はあるけど、それ通したら自分も守れなくなるからね。不快の基準が人それぞれである以上、個人の主観を基準にするのはあまりに危険すぎる。

そして不快な表現の排除を相互にやりあった結果、自由のないディストピアができあがるくらいなら、「合わないことがあるのはお互い様」として相互不干渉にしておいたほうがまだいい。相互確証破壊のようなものか。
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